インタビュー

有限会社 アサギリ 代表取締役 簑 威賴【前編】

 
 
◆ 自己紹介をお願いします。
有限会社アサギリの代表取締役をしております。簑 威賴と申します。
僕の出身は富士宮市ではなく、富士川で“みかん”を作っている農家の三男として生まれました。 先代がみかん農家をやりながら、ここ朝霧に土地を求めてやって来て、みかん農家と酪農を兼業で行う【朝霧牧場】という有限会社を昭和40年に設立し、昭和63年の事業変更、平成27年の社名変更を経て、今に至ります。 僕自身は先にも言った通り、生まれも育ちも富士川(今は富士市)で、第一小学校に通い、第一中学校へ行って、高校は富士東高、大学は工業系の日大へ進学しました。その後、サラリーマン生活を6~7年続け、実家に戻り、平成15年に代表取締役に就任いたしました。
◆ ご自身をどんなタイプの人間だと思いますか?
凄くいい加減なタイプだと思います(笑)
新しい事をやりたがる“好奇心旺盛なタイプ”なのですが、その反面飽きっぽい性格でもあるんです(笑)
だから新しいことを始めると社員からもよく叱られます(笑)
 
――― そんなタイプにはとても見えませんが…。
いえいえ、個人的にはしっかりしていないと思います(笑)
同じことをずっと続けるのが苦手なんです(苦笑) なので、同じことをコツコツ続けて出来る人を凄く尊敬しています。自分には出来ない事なので(笑) じっとしていられないタイプなんですよ。いつも「何か新しいことをやりたいな!」と思って行動しています。

◆ どんな事業をしていますか?
先程も少しお話しましたが、弊社は元々昭和40年から酪農業を営んでおりました。しかし、GATTウルグアイラウンドといった貿易交渉の時に社会情勢が変わり、酪農で事業を続けていく事が厳しくなりました。 その為、酪農業を廃業し、産業廃棄物の肥料化処分という“産業廃棄物の処理・加工業”と加工してできた“肥料の販売業”に事業をシフトしました。 産業廃棄物と一言で言っても様々な種類があるのですが、弊社ではその内の“有機性”と言われる廃棄物、例えば『食品工場でお弁当などを製造した時に出る残渣』や 『工場内の廃水を綺麗にする水処理設備から出てくる汚泥と呼ばれる水をろ過した時に出てくる残渣』『酪農で出てくる牛糞』などを集め、発酵させて肥料を作っています。
所謂“リサイクル”ですね。あまりメジャーではないので、なかなか理解をするのは難しいかもしれません。 県内でも珍しい事業で、県内に10社~20社弱くらいしか無い業界なのです。規模を考えると、弊社が県内で一番大きなクラスになります。
今回、弊社では新しく会社案内のパンフレットを作成したのですが【産廃処分場らしくないパンフレット】を作ろう!ということを念頭に置いて作成したので、 表面には経営理念や代表挨拶、裏面は工場の全体図を入れた色遣いもカラフルなパンフレットが出来上がりました。工場内も富士山が綺麗に見えるように、電柱を地中化したり、桜を200本植えたりして、景観にも気を付けています。 もう少しで工場内の工事も全て完了するところです。
産業廃棄物の処分場というのは“無くてはならない業種”なのですが、一方で一般の方からは「自分の家の庭の裏や隣に出来たら嫌だ」と言われてしまう業種なんです(苦笑)

絶対に必要な業種だと理解はしていても「生活スペースにその会社があるのは嫌だ」と言われてしまう…。そういう現状を無くしたい。自分の庭の裏や隣にあっても「あの会社がしっかりやってくれているから、この地域は大丈夫だ」と言ってもらえるような企業にしたい。 そんな思いから、景観という観点も大事だと思って、富士山が良く見えるように電柱を地中化したり、桜を200本植えたりしました。5年10年経ったら「桜がいっぱい咲いているところが、産業廃棄物の処分場なんだ」と言ってもらえるような会社になっていたらいいなと思っています。
 
―――『景観にもこだわりのある処分場』というのは素敵ですね。
過去には良い事ばかりじゃなかったんですよ(苦笑)
恥ずかしい事ですが、地元の方々から【臭いの苦情】があったりして、ご迷惑をお掛けした事もあります。ですが、だからこそ『この地でやっていく為には』『この地域に無くてはならない会社になる為には』と考え、地域に迷惑をかけていたら絶対に事業は成り立たないと、たくさんの葛藤をしました。時には苦情を受け、逃げ出したくなることもありましたが、地域の人々に頭を下げつつ、しっかりやってきたことで何とか認めていただき、弊社の今があります。 決して順風満帆でやってきたわけではありませんが、そういう過去があるからこそ、弊社の経営理念を決めることができました。良い事も悪い事もあるけれど、結果として弊社が会社としてあり続ける為には、景観も含めて『地域にとって、無くてはならない会社』にしていかないといけないと思っています。

◆ どんな学生時代でしたか?
中学では剣道部に入っていました。ただ、酪農をやっていた関係や、ボーイスカウトに入っていたこともあり、キャンプや登山などのアウトドアが好きだったので、 高校ではワンダーフォーゲル部に入りました。富士宮市や富士市に住んでいても富士山に登った事がある人って実は少ないんです。 僕自身はワンダーフォーゲル部に入部したことで、富士山を8回ほど登った…登らされました(笑) 今でこそ富士山も登山客で賑わっていますが、僕が学生の頃は人が少なかったので、スイカを持って登り、富士山頂でスイカ割をしたこともありました(笑) 何度も登っていたので、富士山はあまり難しい山では無くなっていて、夏は先ほど言ったスイカ割や、水を何リットルも持って登り、山頂で宴会をやったりしました(笑)
何も持ってきていない一般の登山客もいたので、顧問の先生に「寒がっている人たちに分けてあげなさい」と言われて「こんなに重い思いをして持ってきたのに…」と言いながら、配給の様に豚汁などを配っていたことを思い出します(笑)
 
――― 山頂で簑社長たちに出会えた人はラッキーですね!
本当にラッキーですよね(笑) 寒い思いして登ってきたら「なぜか豚汁をもらえた!」ですからね(笑)
でも、みんなに配る為に持ってきたわけではないので、量はそんなに多くは無かったです。なので、たまたま近くにいた人たちにだけ配ったりしていました。
富士山の他ですと、国内では南アルプスと北アルプスにも登りました。一番思い出に残っているのが、北アルプスの『槍ヶ岳』ですね。全国でも有数の綺麗な山で、遠目から見ると頂上が尖っているんです。 山頂は20畳くらいしか無くて、本当に“山頂!”っていう感じの山です。それを登った時が本当に大変で…。物凄く苦労しながら、8時間くらいかけて登ったのですが、登っている時は正直「なんでこんな辛い思いをして登っているんだろう?」って思っていました(苦笑) 登っている時って、自分の足元しか見えないんですよね。その状態で1時間登ってみても、先の風景は全く変わらないんですよ。1時間登ったのに、山の変わらない姿がそこにあって、山頂は物凄く遠くに見える。でも、登っている途中で、パッと後ろを振り返ってみたら、さっきまですぐそこにあった地上がずっと下に離れていて…。 そこで見た景色は、苦労して登った人じゃないと見えない風景でした。槍ヶ岳の山頂に辿り着いた時は、疲れや苦労が全部吹き飛んで、苦しいという感覚じゃなく「あぁ、自分で登ってきたんだな」という達成感を感じることができました。高校生の時にその達成感を感じることができたことは、僕にとって凄く大きな財産となっています。 努力をして地道にやってきたことは、必ずどこかで返ってくると思えるようになりました。

もし、これがヘリコプターなどで飛んで登っていたら、山頂に着いても「綺麗だね」って思うだけで、感動はあまりなかったと思います。でも、自分で努力して登ったからこそ、今でも鮮明に思い出せる“思い出”になったんだと思います。 それくらい辛かったので(笑) 冬になると八ヶ岳で“冬山登山”として、雪の中を登ったりしました。その時に『山スキー』という、山の中をスキーで登ることを体験して、それからスキーにのめり込むようになりました。 大学は東北の福島県に進学したこともあり、スキー部に入って夏場にバイトしたお金を全部冬山に投資するようになりました(笑) 普通はスキーウェアって一年に1着買うものなんですけど、僕の場合はエッジで裾がボロボロに切れたりしたので、2着目を買わなくてはいけなくて(笑) 板も最初は初心者用の板を買っていたのですが、シーズンの途中で変えてみたりしたので凄くお金がかかっていました(笑)
12月~2月くらいは長野の岩竹スキー場という所に住み込みでバイトをしていました。 バイトと言っても、住み込みで三食付いていたので、お金はほとんどもらえなかったですね(笑) 自由時間に宿が持っている無料のチケットを使って、タダでスキーに行っていました(笑) 本当に大学時代はスキーばっかりやっていましたね(笑) それはそれで凄く楽しかったなって思います。 僕が大学の時って、今からもう25~6年前の話になるのですが、その頃はちょうど「私をスキーに連れてって」というドラマがやっていたりして、みんながスキーに行くような時代でした。その為、スキー場が物凄く混んでいて、そんな中で山にこもってバイトをしながらスキーを満喫していたことが印象に残っています。我ながら、よく4年で卒業できたなと思いながら(笑)
――― スキーに打ち込みながらも、ちゃんと勉学にも励んでいたという事ですね。
なんとかやっていましたね(笑)
バイトで生活費…遊ぶお金なのか生活費なのは判断しにくいですが、バイトをしないと生活ができなかったりもしました(笑) 大学が理系の工学部だったので、実験などもあり、実験の単位は1つ落とすと留年確定なんですよ(苦笑) 卒業研究などもあったのに、スキーに行ってばかりでよく卒業できたなぁって思います(笑)
こうやって、部活動だけを見てみても中学~大学まで全てバラバラなんですよね。 先程の“どんなタイプ?”の時に話したように、やっぱり飽きやすい性格なんです(笑) 今でもたまにスキーはやっていますが、最近は忙しくて、今年も残念ながらスキーにあまり行けなかったですね。とにかく、学生時代は『ずっと遊んでいた』と思います(笑) たぶん皆さんも同じではないですか?(笑)

◆ プライベートでは主にどのような事をされていますか?
最近は仕事が忙しいので、プライベートの時間があまり取れていないのですが、たまにゴルフに行ったりすることはあります。 あとは、経営者のお友達と釣りに行くことが多いですね。TOPインタビューに掲載されているシンコーラミの河原崎君や他の経営者仲間と一緒に船で海釣りに出かけたりします。 タイとかハマダイなどを釣ったりしますね。信じられますか?1月などの真冬の寒い時期の深夜1時・2時に家を出て、風が物凄く吹いている朝の海で、波に揺られながら釣りをするんですよ(苦笑) 防寒対策で上着を着たり、背中にカイロを当てたりしながら、でも手は素手のままなのでとても冷たくて「真冬の寒い中で何をしているんだろう」って自問自答しながら釣りをするんです(笑)
――― 釣りをされる方は朝が早い方が多いですよね。
早いですね。朝の3時とか4時に船が出るので、その時間までには釣り場に着いていなければいけませんから(笑)
船で沖へ出てから釣りを開始して、終わるのが大体12時~13時。だからみんな早起きなんですよね(笑) 僕の場合は、釣ってきてそこで終わりじゃないんです。釣ってきた魚をちゃんと三枚に捌いておかないと料理をしてもらえないので(笑) ちゃんと鱗も取って、捌いて、わたなども取って綺麗にして…。そこまで出来たら家内に「後はお願い!」と言います(笑) 捌くまでが僕の仕事です(笑)

――― 新鮮なお魚が食べられるだけじゃなく、調理がしやすいように捌いておいていただけるって言うのはご家族に喜ばれるのではないですか?。
そこまでしておかないと料理してもらえないからやっているんですけどね(笑)
鯵などはなめろうを作って冷蔵庫に入れるまでやります(笑) いつも家に帰ってからお風呂に入り、片付けをしてから魚を捌きます。 夜中に行く釣りだと、夕方5時とか6時に家を出て、夜の8時9時くらいから釣りを始め、朝5時くらいまで釣ったりします。 周囲に釣りをする人が多いので、なんだかんだで一緒に釣りに行くことは多いです。
―――寒さで釣りが嫌になったりはしませんか?
釣れる時は良いのですが、釣れない時はテンションが下がります(笑)
朝から行って、こんなにお金を使って何をしに行ったのだろうって思ったりもします(笑) そういう風に思うくせに次もまた行くんですよね(笑)
あとは仕事が忙しいので、家族サービスもしなきゃいけないなと思って、家内と一緒に観光に行ったりしています。 中学や高校の旅行などで行った場所へ観光に行くとその頃とは違った角度で建造物などを見ることが出来るようになっているんです。 中学・高校の時はただ旅行に行くことが楽しかったのですが、歳を重ねてきて、歴史背景などをちゃんと学んでから観光している今の方が、やっぱり楽しいなって思います。京都には毎年お正月に行くようにしていて、今まで知らなかった部分を知識として知れば知っただけ楽しくなるという事を最近は実感しています。

――― 京都というと、学生の頃に修学旅行などで行った人も多いですよね。
そうですね。でも、修学旅行で覚えていることって『何のお土産を買ってきた』とか『誰と一緒のグループで行った』という事しか覚えていないですよね(笑)
京都に行くと、今でも学生さんたちがいっぱいいますが、みんなお土産を買うのに夢中です(笑) 僕も昔は歴史背景や建物については「ふーん」という感じで見ていました。 でも、今はそれが変わってきて、知識が増えたことで楽しみも増えているんだなって実感しています。逆に言えば『なんで学生の頃は勉強しなかったんだろう?』って思う事もあります(笑) 知らないって損だと、そう思う事がたくさんあります。時間が無いから行かないというのも凄く勿体ない事だなって思います。
あとは、車にも興味があります。仕事柄車に乗っている時間がかなり長く、年間で大体4万~5万キロくらい走っているので、車を見たりすることもありますね。 今の愛車も見た目は結構綺麗なのですが、もう1年経っているので5万キロくらいは走っています(笑)
 
―――休日は外出されていることが多いという事ですね。
そうですね。家でゆっくりしていたいと思う事もあるのですが、丸一日、家から一歩も出ないという事は無いですね。
とりあえず「どこかに出かけよう!」と言って出かけています。家内にも「買い物に行こう」と言って連れ出したりしますね。 一人で出かけることもありますが、平日も仕事で出かけているので、家族サービスの意味も込めて家内と一緒に出掛けています。 家内は「イオンで買い物でもいいよ」と言っているのに、伊豆まで行ってしまう事もありますね(笑) 「コストコに行こう!」とか、家内としたら引っ張り回されて大変な時もあるかもしれませんね(笑)

◆ 大切にされているビジョンやポリシーは何ですか?
経営理念になっている「たゆたえども沈まず」という言葉ですね。
会社が凄く大変だった時に『どうやって進んでいこうか』と考えて、経営理念にした言葉です。
元はパリ市の紋章にラテン語で書かれている言葉で、パリの船員組合の標語です。この言葉を僕が初めから知っていたわけではなく、1998年のワールドカップ フランス大会で日本が初めてワールドカップに出場することになり、 その時に結婚前の家内と一緒にフランスへ行き、サッカーを観戦した際、パリ市の大きなパブリックビューイングの場所に綺麗な紋章があったのです。その時は「なんだろう?綺麗な紋章だな。 こんな言葉が書かれているんだな」くらいにしか思っていませんでした。しかし、会社が大変になった頃、この言葉の背景や意味を知り、まさに今の弊社の状況を表していると感じました。
【たゆたえども沈まず】パリの歴史を遡ると、フランス革命や第一次世界大戦・第二次世界大戦。その全てでパリは動乱の最中にありました。第一次世界大戦ではドイツに侵略されたこともあり、様々な困難の中で『でも、パリは確かにそこに合った』動乱の中でもパリは残り続けていました。 セーヌ川に挟まれた場所に位置する町なので、パリの昔の交通手段は船がメインでした。そこで、船の船員組合は『どんな荒波に呑まれても、帆が折れても、必ず目的地にたどり着く。どんな困難があっても諦めない』という意思をこの言葉に託したのです。
良い事も悪い事もある中で、挫けそうになる事や諦めそうになることがあっても、会社は前に進む。過去にあった周りに迷惑をかけて謝った時など、逃げ出したい事の連続で「なんで僕がやらなくちゃいけないのか」と疑問に思う事もたくさんある中で『諦めずに前に進む。 どんな困難でも乗り越えていく』というこの標語を見た時に「正しく今、弊社が・僕たちが置かれている状況を表している言葉だ」と思いました。言葉自体を先に知って、色々と調べていく内にフランスに行った時に見た紋章に刻まれているという事を知り、運命のようなものを感じました。 だからこそ、この言葉は凄く大事にしています。そこで、会社の経営理念にしようと決意しました。弊社の新しいパンフレットにも、開いて最初に目が行くところに書いてあります。本当に凄く大切な言葉です。