インタビュー

丸山工業株式会社 代表取締役  九川治喜【前編】

 
 
◆ 自己紹介をお願いします。
丸山工業株式会社 代表取締役の九川治喜と申します。
生まれは山梨県の、昔オウム真理教で有名になった上九一色村にある本栖湖です。 本栖湖の隣に精進湖があるのですが、そこに小学校があって、本栖湖からバスに乗って小学校へ通っていました。生徒の人数が少なくて、全校生徒は92人でしたね。当時私が入学した時は1年生が15人いて、他の学年に比べたら多い方でした。そこで過ごしたのは小学校1年生までです。私の父が丸山工業株式会社を富士宮市の宮原に設立したので。最初、父は本栖湖から車で通っていたのですが、その後家族全員で富士宮に引っ越すことになり、小学校二年生の時に転校し、そこからは冨丘小学校に通いました。最初は1学年4クラスもあるし、言葉遣いも違ったりしていろいろショックを受けましたね。引っ込み思案みたいな感じだったのでなかなか馴染めなかったりして。でも子供だからその後すぐに慣れましたけどね。お友達もたくさんできましたし。
―――そういえばどうして苗字は『九川』なのに『丸山工業』という名前なんですか?
父親の姉の旦那さんが昭和35年くらいに、東京の大崎に『丸山製作所』という小さい工場を作ったんです。その方が丸山さんという方でして。はっきり覚えていませんが、クリスマスのイルミネーションの小さな電球に色を着けるという仕事をしていたと思います。 そんな中、いすゞ自動車さんから丸山さんのところにこんなのができないかって話があったようで、以前父が丸山製作所さんでアルバイトをしていたこともあり、その流れで父に話がきまして、静岡で会社を作っちゃいなよという話になり、昭和46年に丸山工業株式会社を設立し、いすゞ自動車のトラックの部品を作っていました。 はっきり私も分かりませんが、資金を援助してもらったことが関係して名前だけいただいたのだと思います。

どこまで話しましたっけ?小学生時代でしたね。当時、得意なものって何もなかったんです。運動もしていませんでした。球技的なものがダメなんですよね。実は小学校にあがる前くらいに父親とキャッチボールをした時に、ボールが顔面に当たった記憶があるんですよ。それがトラウマになってしまって、何か飛んで来ると『うわっ』ってなりますね。丸いもの恐怖症みたいな感じで(苦笑)中学校は富士宮第四中学校へ行きました。中学に入ると部活動に入らなきゃならないけど、ボールを扱うスポーツばかりなので悩んだのですが、結局一番ボールが当たっても痛くなさそうな卓球部に入部しました。 卓球部に入ってなんとなく過ごしたけど、やはりさぼりがちになってしまったんです。そんな時、吹奏楽の先生が『ふらふらしてるなら俺のところへ来い』と言ってくれたのがきっかけで卓球部を辞め、吹奏楽部に入りました。そこではトランペットを先生に薦められてやっていましたね。

高校は静岡県立富士高等学校へ行き、高校に入ってからも吹奏楽部に入部しました。中学時代はトランペットをやっていましたが、自分は金管楽器よりも木管楽器の方が向いていると思い、高校ではクラリネットをやりました。やはりクラリネットは自分に合っていて、パートリーダーもやっていましたね(笑) 大学は立教大学へ行きました。そこでも吹奏楽部はあったのですが、オーケストラに憧れがあったので交響楽団に入りました。クラリネットをやりたかったのですが、オーケストラは吹奏楽と違って弦がメインなのでクラリネットをやれる人数が少ないんです。なのですぐに満員になってしまって・・・。ファゴットなら誰もやる人はいないよと言われ、ファゴットをやることになりました。それからファゴットは今現在もやっていますね。 『清水フィルハーモニー』管弦楽団の一員としてコンサートを行っています。それ以外にメンバー4人のファゴットだけの演奏会も行っているんです。
―――ファゴット単体の音ってあまり聞くことないですよね。
そうなんです。すごいマイナーです。名前もあまり知られていないですし、楽器を見れば音楽の教科書に載ってたかもって思うくらいで。
―――ファゴットってお値段はどのくらいするんですか?
当時、新品で買うと100万円以上でしたね。学生時代に買ったものを今でも使っているのですが、学生でお金がなかったので中古で買いました。確か48万円だったという記憶があります。一緒にファゴットの演奏をしている方のは300万円もしますよ。

―――高いですね。
バイオリンと比べたら安いと思いますよ。高いものは数千万円とか億とかしますからね。
大学を卒業してからは、親も会社を継いでくれという感じではなく、好きな会社に行って好きなことやっていいよと言ってくれたので東京で就職をしました。そこで1年間ソフトウェアのエンジニアをしていたのですが、宇宙関連の仕事に就ければいいなと思っていたところ、筑波市にある『筑波宇宙センター』内の同じグループ会社に出向になったんです。人工衛星の一般的な管理を任されている会社です。そこに2年くらいいましたね。人工衛星のことなので24時間交替で働いていました。人工衛星に向けてコマンドを打ったり、人口衛星から来るデータを記録したりしていましたね。
比較的単調な仕事だったので、もっと何かを作るみたいな仕事の方が向いているかなって思って完全にそのグループ会社を辞めました。その後、外国のソフトウェアを大手の会社のコンピュータにインストールして保守をする、みたいな仕事を三年くらいやっていました。そんなことをしていたところ、親から『会社を継がない?』と声がかかってきたんです。
―――それでこちらに帰ってきたのですか?
そうです。やはり親から頼まれると、他人じゃないのでできそうなことならやってみようと思って。 最初は営業や現場作業など色々やりましたよ。36歳の時にそろそろ交代しようということになり社長になりました。

 
◆ ご自身をどんなタイプだと思いますか?
ファゴットではないですけど、下から支えて上の目立つ人を活躍させるタイプですかね。引き立て役と言いますか、俺について来いみたいなタイプではありませんね。 まあ、なるべくいろんな人に主体的に活躍してもらいたいなって思っています。自分はその人達ができない部分を補って支えるみたいな。社長になってもそんな感じですね。 ファゴットっていてもいなくてもよさそうですが実際いないと困るんです。ファゴットがない曲はほとんどありませんからね。必ず存在するし、実際いないと困る。自分もそんなタイプだと思っています。

◆ 趣味・好きなことは何ですか?
先程もお話しましたが音楽ですね。
―――確かバイクにも乗られるんですよね?
よく分かりましたね?
――― 前回の鈴木社長のお話に出てきましたので。
そうなんです。バイクも好きですね。でもなぜ好きかと言われても良く分からなくて。きっとDNAなんだと思っていたら、ある方から『あなたは頭蓋骨の形からして遠い祖先はモンゴルの騎馬民族だね』と言われ妙に納得したり(笑)やっぱり男の子ってみんな子供の頃、車とかバイクとか電車とかって好きじゃないですか?中学とか高校とかになると乗りたくてしょうがなくて。でも高校までは乗れないので我慢して、大学生になった時にはすぐに原付免許を取りに行きましたね。
当時約7万円くらいで中古のスズキのRG50を買いました。5速マニュアル車で足でギアチェンジするのですが、原付免許って学科だけで取れるのではっきりいって操作の仕方が最初よくわからないんですよ。買ったまでは良かったのですが、そこから下宿先に帰って来るまでがすごく大変だった記憶がありますね(苦笑)
――― 無事に着けましたか?
はい。なんとか無事に着きました。
その後は学生時代に中型免許も取って何台か乗り継いだりしました。でもそのうち結婚してバイクも売ってしまい、子育てで忙しくなってから20年くらいはまったく乗ってませんでした。それからしばらくして子供も大きくなってきたので大型免許を取ってもいいかなと思って6年くらい前に取りました。学生の時にすごく乗りたかった憧れのバイクがありまして。キックしないとエンジンがかからない硬派な600ccです。それの当時モノを注文してから教習所へ通わせてもらいましたね(笑)男はキックだって言って、ボタンを押せばエンジンがかかるヤワなバイクなんて男らしくないとその頃は思って乗っていたのですが、年を取ってくると段々つらくなってきてしまい、ちょうど1年くらい前にそのバイクを売り、今度はボタンで指1本でエンジンがかかるバイクを買いました。でも排気量が急に大きくなって1300CCもあるんですよ。

―――どういうところへ行かれるんですか?
夏は暑いので長野に行きます。最近行ったのは神奈川にある宮ケ瀬湖ですね。結構こだわりのバイクがたくさん集まっているんですよね。みんなで見せ合ったりして。私のバイクは自慢できるバイクではないので、ただ行くだけなんですけど。
バイクってUターンが難しいんですよ。バックもできないし、すごく広い場所なら大きく回ればいいのですが、そこそこ限られた道幅だと難しいんです。そこで私、まだまだ下手くそなんですけどUターンの練習動画のユーチューブを出したんです。Uターンに困っている方がたくさんいらっしゃるので意外と見られているんです。2月頃に出したのですが、もう4,000回以上も視聴されてるんですよ(笑)
(実際にユーチューブを見せてもらう)――― かっこいいですね!コメントまで付いているんですね。
注意点なんかを自分の経験を踏まえて書いています。
――― 音楽・バイク以外にも趣味はありますか?
スケートですかね。スケートと言ってもスピードスケートです。音楽ばかりやっていても運動不足になっちゃうし、球技だと苦手だけどスケートだったらいいかなと思って10年くらい前に始めました。最初はスケート教室に通いましたね。実は昔、富士宮ってスピードスケートがとても盛んだったんですよ。20・30年くらい前とかは北山中学校とかがすごく強くて、全国大会へ行ったりしてましたよ。
――― どこで習われていたんですか?
朝霧の野外活動センターです。大体毎年11月頃から3月頃までやってるんですよ。富士宮スケート協会があって、そこの先生が教えてくれています。私も指導をしたいなと思い指導員試験を受けて、準指導員の資格を持っています。以前は選手として大会に出場もしていましたが、今はスポンサーだけで競技はやってないです。

 
◆ 毎日行っているルーティンなどはありますか?
毎日ではないですが、願掛けとして盛り塩をしています。全部で5箇所置いているのですが、4・5日に一回くらい交換していますね。最近始めたばかりなんですけどね(笑)
――― お清め的な感じですか?
実は色んな怪奇現象みたいなのが過去にありまして・・・・。 弊社には道路を挟んで第二工場があるのですが、その隣が昔はラブホテルだったんです。でもそのマスターがもうホテルを辞めるので買ってくれないかと言ってきたんです。変な人に買われるより弊社で買ってしまおうってことになり買いました。ホテルの建物はそのまま利用して、壁を取ったりしてリフォームして倉庫にしたのですが・・・・。 私は一度も見たことはないですが、子供がいるわけないのに子供が歩いているのを見たりとか、カーテンを閉めたら向こう側から手が出てきたのを見たとか、時計が急に高速回転してぐるぐる回り出したとかっていろいろありましてね。でも盛り塩を置いてからはそういった怪奇現象が一切なくなりましたね。

 
◆ 子供の頃に楽しみにしていた行事などはありますか??
浅間さんのお祭りですかね。その時だけは特別にお小遣いがもらえたので、お祭りの出店以外におもちゃ屋さんでプラモデルなどを買ったりしていました。
他にはクリスマスとお正月も楽しみにしていましたね。
――― クリスマスはサンタさんが来てましたか?
そういうのはなかったですね。お小遣いをもらって自分の好きなものを買っていました。でも自分が親になった時はしっかり演出していましたよ(笑)いつまでやっていたかは忘れてしまいましたが。

――― どんな演出をされていましたか?
私の子供は現実的な感じだったから、現実感を多少持たせました。サンタさんは外国の話だから日本にはいないよ。日本は金太さんっていうんだよ。しかもトナカイに乗ってくるなんてことあるわけないじゃん。金太さんは軽トラックに乗って来るんだよ、とか言ってましたね。プレゼントも『今日ね、会社の帰りに金太さんの軽トラックに会ってもらってきた』と言って渡したりしてました。
――― お子さんの反応はどんな感じだったんですか?
何年かしばらく信じていたと思います。金太さんに欲しいものを書いた手紙を『お父さん、金太さんに渡しといて』と頼まれたりしていましたしね。
 
 
◆ 富士宮市の自慢できるところがあれば教えてください。
やはり富士山ですね。弊社には県外からのお客さんが結構いるのですが、皆さんここへ来て曇っていたり雨が降っていたりして富士山が見えないと『あ~。今日は富士山見えなかった』と言ってとても残念がるんですよね。逆に晴れていて富士山がよく見えると『今日は富士山が見えた!』って言ってすごく機嫌も良くて、仕事の嫌な話も割とスムーズに進んだりするんですよ(笑)富士山が見えなくて仕事もいまいちで、さらに不具合が出たなんて日はもうかなり憂鬱ですね。
――― 県外のお客様ってどの辺りですか?
三重県とかですね。埼玉県のお客さんもいますが、埼玉県は見える場所もありますからね。あと、富士山以外だと、自慢できるのは浅間さんとかやきそばですかね。
――― 富士山に登られたことはありますか?
小学校3年生の時に父親と一緒に登りました。その1回だけですね。大変だったという記憶はあまりないです。

◆ どんな事業をされていますか?
金属のプレス加工・パイプ加工。一言でいうとそんな感じです。業界的には自動車業界で、9割以上が自動車の部品ですね。例えばホンダ『S660』という軽自動車のスポーツカーや『クラリティFUEL CELL』という車に使う部品を作ったりしています。
弊社の立ち位置を説明しますと、ホンダさん・日産さん・スズキさんとかが最終的に車の形にしていますが、例えばハンドルはハンドル屋さんに、椅子は椅子屋さんにみたいに任せましょうみたいな感じで任されている下請けさんが『Tier1』と呼ばれ、さらにその下請けさんが『Tier2』と呼ばれています。弊社はその下だったり、あるいは『Tier1』から直接だったりという、そういった立ち位置です。 まず、図面とか三次元データみたいなものが来て、それを作るにあたって金型を作ります。プレス加工というのは必ず金型がいるんです。その図面やデータを見て金型メーカーさんにプレス機に付ける金型をお願いするのですが、これが場所も取るし値段も高いんですよ。何百万円とかするんです。 でもそうは言っても車なので大体毎月計画的に作るので、安定して注文がいただけていますね。それに弊社では車を作ってるんですよって言えますので、やりがいも感じられます。ただやはり価格が非常に安いんですけどね(苦笑)

会社を経営していると、誰でも自社製品があるといいなって思ってると思うんです。値段も自分でつけられるし、やりがいもとても感じられると思うんです。それでチャンスがあればそういうこともやってみたいなと思い一応勉強をしました。 そんな中、株式会社マクルウさんからマグネシウム合金の加工の下請けを頼まれるようになり、マグネシウム合金というものを知りました。特徴としてはすごく軽いんです。株式会社マクルウさんの商品でマグネシウム合金製の杖があるのですが、その杖に長さを調整する為の穴がたくさん空いているんです。私は木管楽器をやっているのでそれを見て『これ笛じゃん』って思ったんです。でもそうは言ってもまさか楽器なんて作れるわけないとその当時は思っていました。その時はそれで終ったのですが・・・。
2017年の商工フェアで、市役所の方から出展しないかと誘われました。初めは断ったのですが、周囲との関わりがあって結局出展することになったんです。じゃあ出展する為に何かを作ろうと言って、バイオンの不要な材料を輪切りにしてイヤリングにしました。もっと他にも何か作ろうってことで試しに作ってみたのがケーナです。ケーナってシンプルなんですよ。リコーダーって吹くだけで必ず誰でも音がでるじゃないですか?その代わり仕組みが難しいんです。でもケーナって難しい仕組みのところを人間の口が置き換えるっていう原理だと僕は思ったんです。だから作りやすいって。 とにかく自社製品として送り出せないかなというスタンスでやりました。無理の無いスタンスで。実際作ってみたら意外と良い結果が出ましたね。作る中で意外と苦労したのは輝きでした。自分の中で楽器というのはピカピカしていないと許せなかったので必死で磨きましたね。音も似たような音が出るようにして。後はネーミングとパッケージが非常に重要だということを学んでいたので必死に考えました。そして『marco』というブランドを作りました。楽器に押す刻印も注文して作ってもらいました。 『marco』には、『まるやまうぎょう』の文字だったり、地元静岡県のキャラクターの『ちびまるこちゃん』や、ケーナ発祥の南米を旅する『マルコ少年』、冒険家『マルコ・ポーロ』などの意味が込められています。この商品は商標登録もさせてもらっています。 パッケージは自分のイメージを伝えて作ってもらいました。やはり単体であるのとケースに入っているのとは全然違いますよね。

――― 価値がぐっと上がりますよね。
一応ケースは作ったのですが、もっと携帯性のある持ち運びに便利なケースも欲しいなと思って布みたいなものを探していたところ、市役所の方が富士宮モデルということで『有限会社ひだまりカンパニー』さんを紹介してくれたんです。一緒に色とか素材とかを相談しながら手作りで作って完成させました。企業マッチングが成立した事例として新聞の記事にもなったんですよ。
やっと商品は完成したのですが、実際にケーナを使っている人に使ってみてもらいたいという話になりまして。実はケーナといえばボリビアなんですけど、たまたま当時の従業員にボリビア出身の人がいたんです。しかも叔父さんが市内でバンドをやっているということだったので、練習場所や時間を聞いてアポ無しで行って『こんなの作ったのですが吹いてくれませんか?』って言って吹いてもらったんです。そしたら『なかなかいいじゃん』って言ってもらえて(笑)しかも商工フェアに出るとのことだったので、そこで吹いてくださいってお願いして使ってもらいました。当日、本当に使ってくれたのでとてもうれしかったですね。
――― 偶然がいろいろ重なってすごいですね。
たまたまの連続でした。しかも商工フェアの翌週にスペインの方から注文が来たんです。
――― 日本在住のスペイン人じゃなくてスペインからですか?
はい。ここに送って下さいと書かれた住所はスペインの住所でした。第一号が海外発送でしたね。その後ネットショップを立ち上げたり、試奏したいお客様の為に、知人の勤める音楽舎様に委託販売を依頼したりしました。
話は変わりますが、富士宮の商工会議所さんってすごく熱心なんです。調べたら全国でも静岡県が熱心なんですけど、県内でも富士宮市は特に熱心だと分かりました。毎月市役所で行われる市長の定例記者会見の後に行う、経営革新計画承認企業のPRの場になぜか弊社が選ばれまして・・・。

どうして弊社が選ばれたのか不思議だったのですが、後から聞いたところ、計画の内容が商品として完結していてPRしやすいからということでした。本当にびっくりしました。新聞にも取り上げてもらったり、ラジオやTVにも出演させていただきました。そのおかげで販売数がぐっと増えましたね。多い月は1ヶ月に40本もの注文がありました(笑)
また、経営革新計画が承認されたことにより補助金を受けられることになりました。その補助金を使って専用のWEBサイトとパンフレットを作成しました。イメージキャラクターとして「コスプレしながらオーボエ吹いてみた」をキャッチコピーにライブ活動している『よねちさん』にお願いし、オーボエをケーナに持ち替えてもらって作りました。