インタビュー

株式会社 東海製蝋 代表取締役 阿久澤太郎【前編】

 
 
◆ 自己紹介をお願いします。
株式会社 東海製蝋の代表取締役/CEOの阿久澤太郎です。
僕は富士宮市の西町で生まれ、貴船小に通い、富士宮第三中学校、富士高校を経て早稲田大学に進学しました。その後、アメリカの大学院で修士を取得し、そのまま向こう(アメリカ)の信託銀行に就職しました。そして、日本の支社に配属された後、同じ金融業界で転職をして社会経験を積み、30歳の時に富士宮に帰ってきました。というのも、僕は元々『いずれは蝋燭屋になる(会社を継ぐ)』という覚悟を持っていて、別の会社に就職したのも、色々と経験することによって社会経験を積み、物事を判断する際の価値観や物差しなどをしっかり持つ為でした。なので、小さい頃から30歳までは漠然と『蝋燭屋を継ぐ』という事を考えて生きてきました。実際、父親が65歳で僕が35歳の時に事業を継承して、現在47歳なので10年ほど会社の経営を行っています。 弊社は元々、1877年に横浜で創業し、日本で初めて“洋蝋燭”を作った会社なのです。今も横浜に土地は残っていますが、第二次世界大戦中に疎開する形で富士宮に来て、西町の商店街の中で蝋燭屋を営んでいたんです。昔は一階部分に工場があって、二階部分が住居になっている様な、職場と住居の一体型で経営をしていて、僕が蝋燭会社の5代目になります。
◆ どんな事業をしていますか?
蝋燭を作って販売しています。
弊社の主要取引先は95%以上が神仏具店さん、仏具屋さん、百貨店さん、葬儀屋さんになります。北海道から沖縄まで約3000軒くらいの専門店のお客様がいて、自分たちの作った蝋燭を卸しています。その他にも、弊社と同じように“専門店に特化したお線香のメーカーさん”が約20社ほどあり、その会社のお線香やお香、それから仏具などをお店に卸す仕事もしています。
30年ほど前まで、我々の日用品雑貨の業界は地域ごとに…例えば東海地区に1軒の蝋燭屋さんと何軒もの雑貨の問屋さんがあって、“町の雑貨屋さん”へ供給するというルートでした。弊社の商圏も、神奈川から愛知県くらいまで、そこにある雑貨問屋さんを介して、蝋燭を販売していたのです。

昔は“大規模小売店舗法(大店法)”というものがあり、スーパーマーケットなどの大規模小売店舗の出店を規制していました。しかし大店法が改正されて、規制緩和が起こり、効率を優先させるようになると、大量生産・大量消費型の商売の仕組みに変わっていったのです。そうなってしまうと大型店舗に卸す雑貨問屋さんの規模も大きくならざるをえず、吸収合併を繰り返し、どんどん巨大化していきました。大きな全国規模の問屋さんができて、そこに卸すメーカーさんもどんどん巨大になっていきました。それが可能な規模のメーカーさんは、工場を海外に移転するなどし、大量生産を実現し、大量消費に対応できるようにしたのです。
一方、弊社のような小さな会社は、海外に工場を移転するわけにはいきません。そうなると、やはり何かに特化していくしかない…。
弊社は元々横浜にあり、野毛の仏壇通りにある仏壇屋さんに知り合いがおり、そちらとお取引させていただいたことから、専門店の市場の開拓に経営の舵を切っていくことになります。 ここで得られた大きなメリットは、仏壇屋さんを、私たちが直接訪問することによって“消費者のニーズ”をそのまま吸い上げられるようになったことです。それまで弊社は『ダルマローソク』という一般的な洋蝋燭だけを作っていたのですが、消費者のニーズを一つ一つ形にしていき、一個一個商品を創っていった結果、現在は弊社のカタログに載っているだけで“250種類”程の蝋燭があります。特注品も含めると600~700種類ぐらいの蝋燭を作っており、その蝋燭を専門店に卸すことによって『専門店向けの蝋燭』という市場を一から創っていきました。こうして神奈川の1軒の仏壇屋さんから始まった取引が、現在では北海道から沖縄まで3000軒くらいの専門店からなる市場になったのです。

◆ 富士宮の好きなところを教えてください。
やはり富士山だと思います。
仕事の話になりますが、弊社は蝋燭を作るのに富士山の影響をすごく受けているのです。蝋燭は“パラフィンワックス”というワックスを型に流し、冷やして固めることで出来上がります。その時、冷やす温度は必ず18度じゃなきゃいけません。それより高くても低くても、綺麗な肌の蝋燭ってできないんですよ。 弊社で引いている井戸水は富士山の伏流水でして、皆さんご存知かとは思いますが、60年~80年ほど前に降った水が湧き出てくるわけですよね。地下150Mという非常に深いところの伏流水を引いていて、その水は季節を問わず、必ず14度で一定なんです。
製造工程で、液状のパラフィンワックスを18度の水で冷やすと、その冷却水は22度になって戻ってきます。その22度の水+14度の水を1対1でブレンドすると18度の水がもう一回できるんですね。 他の地域にある蝋燭屋さんは、この冷却水の温度管理にとても気を使わなければならないのです。地下水にしても、水道水にしても、常に一定の温度ではありませんから、その都度、温度調整しなければなりません。 しかし、弊社ではそういう手間が一切いらないのです。常に安定した温度の水を使うことができる。ですから、富士山の伏流水によって、弊社は『綺麗な蝋燭』を作ることができるんです。まさに富士山の恵の宝水のおかげなのです。 その為、弊社のホームページでも『富士山と蝋燭と水の関係を、三味一体にしながら国内で作っていますよ』という発信を全国のお客さんにしています。

その他でも、個人的な話でお恥ずかしい話になりますが、22才の頃アメリカに行っていた時に、僕はすごくホームシックになったのです(苦笑) その時に思い出したのが“富士山の雄大な姿”と、子供の頃一緒に過ごした友達の顔でした。 その富士山の姿と友達の顔から勇気をもらい『もうちょっと僕も頑張らないと』と思って頑張ることができました。富士宮市で生まれて、伏流水を飲みながら富士山を毎日見て生きてきたということは、自分のアイデンティティ形成の一番大事なところに組み込まれている。DNAの一つに“富士山”というものが入っているんだと思います。だから富士山というのは、我々にとって『とてつもなく大事な存在』だと思います。
◆ 子供の頃の夢は何でしたか?
先にお話しした通り、蝋燭屋になるという覚悟は元々持っていましたが、それより前というと船がすごく好きだったので、外国航路の船長になりたかったです。
◆ 座右の銘を教えて下さい。
『二度と来ない今日一日を、明るく真摯に精一杯、私は生きます』
弊社には出勤簿がありません。出勤簿の代わりに、何月何日何曜日『二度と来ない今日一日を、明るく真摯に精一杯、私は生きます』というパネルが工場と本社にあります。そこに名前をサインして一日の仕事を始めています。 日々を暮らしているだけでは中々気が付かないですが、人間って必ず死んでしまうのです。自分もそうですが人間って怠け者なので、明日できることは明日に回してしまいますよね?でも、最後に後悔しない為には“二度と来ない今日一日を精一杯生きる”ということしかないと思うんですよね。そうじゃないと、自分の人生を謳歌することができなくなっちゃうんじゃないかな?と思います。従業員がみんなそういう思いで自分達の人生を昇華させていけたらいいなと思っています。

もう一つ、僕らが一番大事にしているのが【理念】です。
流通の変革に巻き込まれ、必死に「専門店市場を創造していこう」と頑張っていた時に先代が作った理念があるのですが、その中で一番大事なのが『日本の灯(ともしび)の歴史に残る製品を創る』ということです。
蝋燭は1400年以上前に仏教と共に日本に伝わってきました。
弊社の蝋燭は仏教や神道で使われることが多いです。そこで、何のために仏壇や神棚に手を合わせながら蝋燭をお供えするのか?ということを掘り下げてみます。まずは、自分の両親、ご先祖様がいなければ、今自分はここにはいない。自分は縦のつながりの中で生かされていることに対する感謝。さらには、自分は職場や学校などの仲間に支えられていきている。横のつながりの中で生かされていることに対する感謝です。
『他者との関係の中で生かされている』ということを忘れてしまうと、経済活動や経営などでも全て“利己的”になってしまいます。『自分さえ良ければ良い』という事は、お客様よりも、取引先様よりも、自分が得をしなければいけない。利益を一番最優先させなければいけないという事になります。そうなると『自分一人で生きている』という気持ちになっちゃうと思うんですよ。 でも、実際はそうじゃないですよね?周囲から支えられて生きている。ですから、昔の流れに戻り仏壇や神棚に手を合わせていただいて感謝をしながら生きていくとことは非常に大事な事だと思います。そのきっかけとして蝋燭というのは、非常に大切な役割を果たすんじゃないかなと思っています。 従って、僕らが“安全で綺麗な蝋燭”を作ればお供えをする人が増えていく。お供えする人が増えていけば、周囲への感謝の気持ちを持つ人が増えて、その地域が良くなる。その積み重ねで日本が再生していくというのが、弊社の『灯の歴史文化を未来に残していく』ということに繋がるんです。だから全ての従業員が、ただ蝋燭を作っているのではなく『僕らが日本を幸せにしていくために、蝋燭は一つの重要な役割を担っていく』という思いで仕事をしています。
<蝋燭の違いについて教えていただきました>
例えば、この中で弊社の蝋燭がどれか分かりますか?
――― どれでしょう?蝋の色は微妙に違いますね…。
(カメラ担当が一つを指さして)これですか?
そう。それなんですよ。燭台に刺していただくと違いが分かります。
――― 燭台の針に奥までしっかり刺さってすごく安定してますね。しかも全然割れない。大体下の方が割れたりしますよね?
そうなんです。通常の作りだとうまく刺さらないんです。
でも、この蝋燭は特殊な作り方をしていて穴がしっかりと空いていて、下の部分も綺麗に切ってあるので、蝋燭だけでも自立することが出来るんですよ。この蝋燭を発売した後、類似品が各社から出てきたんです(笑)

下の部分が欠けてしまっている様な蝋燭や、燭台にしっかりと刺さらない蝋燭だと、途中で倒れてしまったりしますよね?使った人が危険だと感じると、その人はもう二度と蝋燭を使ってくれなくなるかもしれません。それに燃えた後にロウが燭台に残る物もありますよね?ロウが残ってしまうと掃除をしなきゃいけないので「蝋燭ってちょっと面倒だな」って思われてしまうかもしれない。でも弊社の蝋燭を、弊社の特許を取得した燭台と併せて使ってもらうと最後の一滴まで完全燃焼するんです。燃え残ったロウを掃除する手間がなくなるんですね。そういう安全で綺麗な蝋燭を作ることによって、蝋燭を使う人が増えていくじゃないですか?もし、逆に弊社が危険性のある蝋燭を作ったりしたら、蝋燭をお供えする人は減ってしまい、我々の仕事の根幹を一点で支えている『私たちの蝋燭で日本を変えていくんだ』『幸せな日本にしていくんだ』という思いが全てダメになってしまうんです。 だからこそ弊社は“安全で綺麗な蝋燭”を作っていかなければいけないのです。
蝋燭の違いって分かり辛いと思います。例えば100均の物も、スーパーの物も、仏壇屋さんの物も一見しただけだと違いに気付けませんよね?でも、先程お伝えさせていただいただけでも、こんなに差があるのです。理念の中にも『微差の積み重ねで大差を目指す』という言葉があります。一つの蝋燭だけでは大きな差はありませんが、一つ一つが小さな差を持った蝋燭で、それが何百種類もあると他社には真似ができない大きな差になっていくんですよね。だから本当に小さな差を大切にしながらやっていくというのが大事です。そして、この蝋燭に詰まった想いが消費者にどのように伝わっているのかっていうところですが、例えば絵手紙をもらったりするんですよ。 「近親者が亡くなり、銀座の鳩居堂さんに行ったら、『星のしずく』という蝋燭が売っていた。こういうものをずっと作り続けてくださいね」っていう手紙が届いたりすると、普段は直接お客様と触れ合う機会がない工場の人も我々の想いがお客さんに伝わっているということを感じられて凄く喜ぶんですよ。社員にも「弊社のやっている仕事は、間違っていないな」っていうのを実感してもらえるんです。

――― 送られてきた絵葉書の絵は『星のしずく』のパッケージの絵ですかね?凄くやわらかいタッチで可愛らしいですね。
星のしずくに描かれている“きつねの絵”は、最初は入ってなかったんですよ。
以前、寿退社をした事務の女の子が、そのパッケージに“星のしずく”のイメージで是非入れて欲しいってことで入れたんです。『”新美南吉“のごんぎつね』が凄く好きな子でした。 弊社の商品は一度売れると長く市場に定着していきます。しかも全国で取り扱っていただいているので、例えば結婚して引っ越してしまったとしても、その場所の仏壇屋さんとか、土産もの屋さんに行ったりすると必ず弊社の商品があるわけですよ。自分が関わった製品が世の中に残っていく。自分がした仕事が、一つの生きた証になっていきます。これも一つ重要な要素として捕らえていただきたいですね。 新しい製品を一から最後まで創っていくというのは、責任が伴うのですごく難しいんです。だけど、字が凄く上手な社員にパッケージの文字を書いてもらったり、パッケージの色決めなどの小さなことでも、“自分が製品創りに関わる”ということは、とても重要なことだと思っています。だから、必ず社員のみんなにやってもらうようにしています。
―――自分が関わった商品だと愛着も沸きますし、それが全国に置いてあるのは、見つけた時にすごく嬉しいですよね。
そうなんです。せっかく弊社に勤めてくれたのだから“生きた証”というものを残してほしいと思っています。人生の大事な時間を一緒に働いて過ごしていくわけですから。弊社の製品は、自分が亡くなった後も多分市場に残っていきます。子供達もお母さんやお父さんが創った製品だって誇りに思うと思います。そういう証となる製品を少しでも増やしていきたいです。

◆ 富士宮市の変わったところ、変わらないところを教えてください。
形は変わりましたが、大きく変わったという印象はあまり無いですね。 僕を未だに支えてくれているのは地元の友達ですし、一緒に遊ぶのも昔から遊んでる友達です。自分の周りの環境も変わってないし、やはり富士山は変わらずそこにありますし。社会が変わったり、時代の流れは変わってくべきものだと思うので、当然これからもどんどん変わっていくと思います。流通や小売だってこれから先どうなっていくか分かりませんよね?それによって街の表面的な所は変わっていくのでしょうが、住んでいる人達や文化的なものは一朝一夕に変わるものではないと思います。ここに根ざして暮らしている人達は毎日やはり富士山を見ながら暮らしてるだろうし、大事なものはあまり変わっていかないんじゃないかなって思います。
◆ 富士宮で会社を引き継がれたきっかけ・理由はどんなことですか?
先々代の時に戦争で疎開する形で横浜から富士宮に来たのですが、その時に移住の条件となったのが“水”です。他にもいくつか候補地はありましたが、富士宮を選んだ理由はやはり富士山と豊富な湧水ですね。 そして、僕がアメリカから富士宮に戻ってきたのは、やはり生まれながらにして蝋燭屋を継ぐと考えていたからです。僕自身は、アメリカに就職した時も『会社を継ぐからこそ色々と経験しなきゃな』と思っていたのですが、両親は(継いでも継がなくても)どちらでも構わないという考えでしたね(笑) 以前父親がNHKで取材を受けた時、父親も『私は生まれながらにして蝋燭屋で・・・・』と言っていたので、同じような意識だと思います。
―――誰かに言われるわけではなく、自ら進んで会社を引き継ごうと考えていたという事ですね。
そうです。親は私に大変な姿はあまり見せませんでした。かといって贅沢な暮らしができたわけではありません。あまり(会社を継ぐように)言われたこともないし、ただ昔から工場の中で遊んだりしているうちに、自然に蝋燭屋になるんだろうなと思っていましたね。

◆ 今後、富士宮市にどのようになっていってほしいですか?
変わる必要は特に無いと思いますよ。みんなが“富士山があること”を、誇りに思って生きていくということが一番大事なことだと思います。自分が生きてきたこの富士宮という土地に対して誇りに思えれば、自然と外に向けて発信していくでしょう。 以前、ボストンという町に居たのですが、そこにはチャールズリバーという川があって、その川を中心に市民が散歩をしたり、近くにあるコンサートホールに集ってみたり、市民がそこに住んでることに誇りを思って、そこで生きることを凄く楽しんでいましたね。だから僕はそういう事が一番大事かなと思います。
―――富士山を大切にし、富士宮を大事に思って生活していれば、変わる必要はないということですね。
そうです。ここに生まれたことは、ものすごく奇跡的なことだと思いませんか?人類の歴史の何万年かの中で今のタイミングで生まれた。しかも世界には何千万も都市がある中で、富士宮という土地に生まれた。これはもう奇跡以外の何者でもないですよね。特に富士宮には富士山がありますから、その奇跡をわかりやすく説明できるわけですよ。