インタビュー

有限会社 鈴木製作所 代表取締役 鈴木髙史【中編】

 
 
◆ 座右の銘を教えてください
座右の銘はですね、これです… なんてわからないですよね?

『今ここで頑張らずして いつ、どこで頑張る!?
自分の力の限りを尽し、精神の限りを尽くして頑張れ!!  大石 義春』

これは、北高の野球グラウンドあるじゃないですか。そこのレフトのポールの所に碑が建っているんです。現役当時、これを必ず練習の始めに唱和するんですよ。だから見ないでも言えるくらい頭の中に入っています。だからこれは人生のなんていうのかな、魂そのものですね。
――― この大石義春さんて方はどういった方なんですか?
この方は北高が春の甲子園に行った時の監督さん。亡くなられているんですけどね。これをずっと思っていて、これが根底にある。

これもそうなんだけど、あともう一つ。
今自分ができることをコツコツやることっていうか、自らの分(ぶん)を尽くすっていうのかな。『分』ていうのがいろいろあるじゃないですか。自分っていうのも『分』。『分際』。「貴様、何の分際で」なんていうのもあるんだけど。
自分の立場とかいろいろ、我々の今できる中での、会社でもそうだけど、今できることを一生懸命やる。それを尽くすことで何かに貢献する。
もうこれそのままじゃないかな。何か突拍子もないことを考えていたって、何もできないじゃないですか。結局、失敗して終わるというかね。
だから今できることを一生懸命やって、それからステップアップしていく。
◆ 富士宮の好きなところを教えてください。
みんな富士山ていうとありきたりだね(笑)ありきたりなんだけど、やっぱり県外の人ってなかなか見る機会がないじゃない。
僕は富士山を見ていろいろね、今の季節を感じたりとか、傘雲がかかっていたら雨が降りそうだなとか。だから、日常にも溶け込んでいる、精神そのものじゃないかな。
よく、導かれるように納品がてら山宮の浅間神社に、吸い寄せられるように行ったりとか。あそこで遥拝ができるでしょ。ご神体が富士山だから。
(遥拝<ようはい>:遠く離れた所から神仏などをおがむこと)
富士山がキレイに見える日にあそこで遥拝するとすごく気持ちいいですよ。ご神体そのものが、富士山が見えて。
富士宮の好きなところってやっぱり富士山そのもので、みんなそういう気質で生きているんじゃないかな。人間もね。僕ね帰ってきてよく思うのが、のんびりしているなっていうのは感じるし、その抱かれた人間性が好きっていうか。

――― おおらかってことですか?
おおらかっていうか、車で走っていればよくわかるじゃないですか。東京でそんな走り方していたらもうクラクションならされっぱなしですよ(笑)
遠くから来る人はよく「皆さんのんびり走ってますね」って。でもそれがいいんじゃないですか?
――― 住みやすくはあると思いますか?
うーん、まぁ基本的には。だって気候もいいじゃないですか。雪もたまには降るけど、比較的温暖でしょ。富士山のおかげであんまり酷い…まぁこのあいだ来たけどね台風。けどあんまり酷いのってこないじゃないですか。山も近いし海に行きたければ海にも行けるし。
こんなにいい所ないと思いますよ。東京もすぐ行けるし。
強いて言えば、交通アクセスがちょっとね。だって街中でお酒飲むと、タクシーとか代行で帰ってくると飲むよりお金がかかっちゃうから(笑)ひどい時は歩いて帰ってきますよ。
だから、どのような町になってほしいっていうのもやっぱり交通アクセス次第でね。今、中心市街地が元気かどうかなんとも言えないとこじゃないですか。電車を走らせるなんていうのは無理な話だけど、バスとかなんかそういったところがあれば、大手を振って飲みに行けたりね。
けっきょく僕の大学の仲間とかもここを通って山梨に行っちゃう(笑)寄ってはくれるんだけど、どこ泊まるって聞くと、山梨。皆さん感じていることじゃないかなとは思うんですけど。でも、富士山の形はねぇ、静岡側から見た方が全然きれいですよね。浅間大社から見る形が一番好きですね。富士山らしいじゃないですか。
◆ 富士宮の変わったところ・変わらないところを教えてください。
僕が大学出る頃ってバイパスがまだ一車線だったんですよ。実は言うと(笑)料金所は当然のごとくあったしね。
あとは子どもの頃、(外神の市民)体育館はなかったよね。あんな開けてなかったし、僕の子どもの頃はあそこは森だったんです。カブトムシ取りに行ったところなんですよ。プールは僕富士まで行ってましたもん。おもしろくなかったから富士宮は(笑)
あとは朝霧グリーンパークとか。あそこまで自転車で行きましたからね。今じゃ考えられないけど(笑)元気だった。子どもの頃はね。それが楽しかったんですよね。田貫湖のところの小田急(花鳥山脈)だったかなぁ、あそこも無くなっちゃったしね。 そういうのを感じたのと、あと僕が今感じているのが区の役員をやっていて、新しい人がこの宮原に入ってきていて。
富士宮がどうなのかわからないけど、市街地からこっちに移ってきている人たちがけっこういるんじゃないかな。県外から来る人もいるんだけど。
だいぶ人間が変わってきたかな。ちょっとね、個人主義になりつつあるかなって感じますね。
ただ宮原も富丘学区と大富士学区と大月線が境になっていて、まぁ交流なんかないものね。学区が違うとなかなか。僕の頃もあんまり無かったかなぁ。今はなおさらじゃないですか。それで、子供会っていうものがもう成り立たなくなってきていますしね。
 
――― お子さんが少ないですか?
少ないのもあるけど、実際いるんですけど要は親がめんどうくさい(笑)ただそういう感覚になっているってことは、もう全国的な話かもしれないけど、富士宮もそうなりつつあるんじゃないかな。
――― 地区の夏まつりとかはされていますよね。
そうですね、まだかろうじて昔ながらの人がいるので仕切ってやってくれているんですけどね。若い方はなかなか出てこないですね。やっぱり自分の予定を優先するし、なかなか難しくなっていくかなとは思いますね。
富士宮が変わったところとあんまり関係ないですけどね。
だいぶガラッと変わっちゃったっていうのは、やっぱり森だったところが体育館になっちゃったっていう。

たぶんもっともっとまたこれからなるんじゃないかなとは思いますけど。でもこれは世の常なんじゃないですか。しょうがないとは思いますけどね。
ただカブトムシを取るところ、子どもらがかわいそうかなとは思いますね。なかなか虫取る機会がないんじゃないかな。
――― 今の子どもたちどうなんですかね。
今は「う宮~な」を下った方に森があるんですけど、あの辺に取り行く人はいるみたいですよ。まぁそういう遊びをする人がまずいないかもですね。買うものだと思っているかも。
◆ 今後、富士宮市にどのようになっていって欲しいですか?
そうですね、今産業自体がどうなんだろうな。ちょっと変な話になっちゃうんですけど。
もともと今のジャトコのところが、日産の吉原工場だったんですよ。そういう関係で、この辺りは日産の城下町みたいな感じだったんです。僕らも父親が始めた頃は日産の仕事をずっとやっていて、それで回ってきたんですよ。
ただ、もう忘れもしないね。1999年に、今話題のカルロス・ゴーンさんが来たんです。 明確に覚えてる。彼が来て何をやったかって言うと、『NRP』日産リバイバルプランっていうのをまず打ち出したんです。
まず日産村山工場を閉鎖して、そこの2万人の従業員を切って。 実は日産だけじゃなくて、まわりにはまだ下請けが何社もあったんだけど、そこを全部切って。2万人ばかじゃないよね現実。それから国内の仕事を九州に集めて。
だから自動車産業も本当にぽっかりした、仕事が薄い地域になってしまったんですよね。だからなかなかこの辺は厳しいんです。
僕らみたいな会社っていくつもあったんですけど、やめるところがいっぱい出てきちゃって。 産業自体がけっこう衰退していくかたちになるんじゃないかなって思っているんですよ。
跡取りがいないところもあったり。するとどんどん、良い悪いは別としてやめていくでしょ。 そうするとなおさら我々みたいなところの、勤める人の受け皿も無くなって行く。 
ただそういうことはじわじわくるんで、一気にくるってことはないんですよね。 今後その辺を、地方自治体もどう考えていくのですかね。

今、働き方改革なんて話はしていますけど、中小企業潰そうとしてるんじゃないかな。まぁ、そうではないんだけど、そうともとれますよね。
有休の話もそうだし、残業の話もそうなんですけど、実際末端のことをわかって政策は打ち出してないですよね。 
とくにこの地域で、政策もそうなんだけど流れ的には、自分で言うのもなんだけど、我々みたいな会社が衰退していっているっていうのが現実なんですよね。 その中で僕は生き残らなきゃならないけど、やっぱり地方自治体としてもなんか考えないとまずいかなとは思いますよ。
それで、僕が今取り組んでいるのが話とんじゃいますけど、障害者雇用をやらせてもらっています。最終的に、今社員が16人のうち4人が障害者なんですけど、次年度もう一人増えますね。

今日も実習にきてくれているんですけど。北高の下に富士特別支援学校富士宮分校ってありますよね。その学校と懇意にさせてもらっていて、毎週金曜日は一年生の地域作業でくるし、長期実習も定期的に受け入れているので。
もうかれこれ5~6年になるかな、そういう付き合いをして。
そこから雇用につなげています。 彼らもそうなんだけど、意外と働く場所っていうとなかなか今難しい。 確かに難しいところはあるんだけど、やっぱり実習をしてみて僕らがその受け皿にならなきゃならないですよね。でも実際やってもらうとね、できるんですよ。問題はあるけどそれは。
障害者雇用に切り替えたきっかけっていうのも実はありまして。
外国人の研修制度を一昨年の10月まで、15年やってきたんです。僕のところはインドネシアの方で、いろいろやってきたんだけど、当時は3年で帰っちゃうんですよね。それをもう15年繰り返してきたけど、結局何も残らないなと思って。
いろいろ教えてきたりしたけど、やはり最後には国に帰っちゃうし。確かに一瞬便利だけど、でもそれ恒久的にどうなのって事考えたら、なんにも財産にならないと思って。どうかなって思っている中で障害者雇用と出会ったのがきっかけで、それでぱたっとやめました。
それから今に至っています。だから今後も、障害者雇用を推進していきます。
皆さん勘違いしているけど、障害者の程度にもよるじゃないですか。『ボーダー』って線ができたのが、かれこれ15年くらい前かな。その『ボーダー』ってところの人たち。強いて言えば問題はあるんですよ。手帳も持ってるし。話をすればちょっと違うところもあるけど、真面目なんだよね。もともと日本人が持っていた大切なものを持っているのかなって。今の高校生が仮にきたって勤まらないよ(笑)手は傷だらけになるし。でも彼らはコツコツ一所懸命やってくれるんですね。そういう意味では僕らの宝ではあるし、今後続けていきたいなと思っています。
それはそれで既存の仕事はやってもらうんだけど、もともといた従業員にはやっぱりこっちの方(マグネシウム製品加工)の仕事をやってもらって、付加価値の高い方の仕事を今後進めていきたいなと思っています。

世の中、弱肉強食だと思います?どう思います?この世の中弱肉強食なのかな?それが正しいのかなって思うんですよ。
例えばですけど、人間と虎が1対1で戦ったらどっちが勝ちます?
――― 素手ですか?
いやもう、そのまま。虎に食われちゃいますよね。じゃぁ人間と虎ってどっちが繁栄しているかってことですよ。
――― 人間ですよね。
そうですよね。虎は絶滅危惧種ですからね。ということは何かって言うと、人間の方が確かに個体でいえば弱いんだけど、生き残るのに適した生き方をしてきたってことですよね。 それは何かって言うと、「高度な社会性」にありますよね。社会的弱者って言ったらおかしいけど、弱いものも含めて「社会」というものを形成して今繁栄しているわけで、その弱者を生かして一緒に協働するっていうかね。
『協働』って協力して働くっていうことで、そうすることが我々の責務なんじゃないかなって、今になって思いますね。
弱肉強食っていうのはだから間違っているんですよ。 エリートさんほど、頭はいいんだろうけど肝心なことは分かっていないのかなって気はしますね。だって自動車会社の底って広いじゃないですか。そういうところをぎゅうぎゅうやればその人たちって車買わないよね(笑)
買わないっていうか、買えないですよ、現実に。 それはヘンリー・フォード(フォード・モーター創設者)が言っているんですよ。『藁のハンドル』っていう本で。『従業員は顧客である』って。 だから大企業は下請けや従業員を含めて顧客であるって考えを持たないと、たぶん日本は成り立たないと思いますよ。
 

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