インタビュー

有限会社 アサギリ 代表取締役 簑 威賴【中編】

 
 
◆ 富士宮で会社を引き継がれたきっかけ・理由はどんなことですか?
まずは、弊社が事業変更をすることになったきっかけをお話しします。
昭和40年から酪農をしていた為、僕が物心ついた頃から牛を飼っていました。だから、子供の頃は夏休みなどの長期休暇に入るのが凄く嫌だったんです。理由は、小学校高学年くらいから長期休暇に入ると朝霧に来て牛の世話などを手伝わなくてはいけなかったからです。 弊社に来る途中に家があったと思いますが、そこは牛を飼っていた時に寝泊まりしていた家でした。当時、朝霧に牧場があったので、富士川から富士宮に来るのが嫌で嫌でしょうがありませんでした(笑) 富士宮ゴルフの前や浅間大社の横を通って行くルートだったのですが、富士川にはあんなに大きな神社は無かったので、富士宮に来るたび「ここはなんて違う街なんだろう」って思っていました(笑) 当時は神田川で釣りをしている人もいましたね。とにかく、長期休暇中にずっと酪農の手伝いをするという事が嫌でした。 でも、昭和62年に社会情勢が変わり、外的要因で会社は岐路に立たされました。酪農を続けていく為に、牛の数を増やし牛乳の量を増やして酪農を大規模化するのか、それとも別の業界に切り替えるのか。事業をどうするかという転機が訪れた時、先代の友人で山梨の“コーヒー豆の焙煎工場”を経営していた人から「工場で出るコーヒー豆の殻を肥料にしてもらえないか」「酪農で出たものだけじゃなく、産業界から出る廃棄物を処理する事業をやったらどうか?」という助言を受けて、産業廃棄物の業界に飛び込んだというのが、弊社が事業変更したきっかけです。それが平成元年のお話で、当時の社員は僕の父と兄だけでした。

それから色々な事があり、元から廃棄物の業界にいた人々とのギャップなどに苦しみ、会社を辞めようという話になったりもしました。 ですが、その頃に出会った県の職員さんたちが「辞めたらもったいないよ」と言ってくれたこともあり、先代が会社の方向性を模索し、豊橋にある外部の会社と業務提携をしてやっていく事になりました。 そこで兄から「親父だけだともう時代についていけないから、一緒にやらないか」と誘いを受け、僕はサラリーマンを辞め、弊社に入社したというわけです。 きっかけは兄からの声掛けで、兄を支えるために、平成8年に会社に入りました。今でこそ弊社も綺麗に整備されていますが、当時はまだ牧場の名残のある現場でした。 僕が弊社の仕事を始めて半年ほど経った頃、兄が敷地内にある古い木の電信柱を重機で引き抜く作業を行っていたのですが、抜けた電信柱が運悪く兄の頭に当たるという事故が起きてしまいました。
良いわけではないのですが、当時は家族経営で、会社と呼べるかどうか…という状況だった為、安全対策もしっかり出来ておらず、事故の時も兄はヘルメットを被っていなかったのです。事故発生後、兄が頭痛を訴えた為、病院に連れていったら脳内出血していることが分かり緊急入院・開頭手術となりました。 約2年間、リハビリと入院生活を送ることになり、兄がいない間、僕一人で会社を経営することは不可能だったため、社員を入れて、ただひたすらに仕事をしていました。会社を守る為に、我武者羅に仕事へ打ち込む僕の様子を見ていた父は、兄が復帰する際、僕のいない所で「今、会社は弟(簑社長)が頑張ってやってくれている。 もし会社に戻ってくるんだったら、弟の下で働いてもらう。そうじゃないと上手くいかない」と長男に復帰の条件を出していたそうです。僕はその時は全く知りませんでした。
先代(父)の話をすると、先代は放任主義で「任せる」と言ったら、本当に一切出てこない人でした。例えば、トラックなどの車両を購入する時も、ただの取締役だった僕が、契約書に先代の名前で代表取締役印を押したりしていました(笑) 個人の実印が必要な時や、保証人などの本人が必要な時だけ先代を呼んで「社長、これ書いて」「印鑑押して」って言うような感じだったのです(笑) 兄のリハビリ終了後、また一緒に働き始めたのですが、上記のような状態だったので【責任は社長(先代)。でもやりたいことは自分がやる】という状況が5年ほど続き、ついに先代から「お前はずるい!」と言われてしまいました(笑) 「自分の好きなようにやるんだったら、責任もちゃんと取れ!」と(笑) そこで、先代から僕に経営が変わったのです。社長交代時、一番に思ったのが“兄の事”でした。 しかし、兄については会社に戻ってくる時に父から話をしてあったので、僕が社長になりました。 そういうわけで、弊社は三男の僕が社長で、長男は工場長で取締役、二男は営業などの担当で平社員なんです。もちろん、それは社内だけの話で、実家に帰れば話は別ですよ。法事などは長男が仕切って、何を言われても僕は「はい」って言いますから(笑)

◆ 簑社長に経営が変わってから、会社自体をどのように改革していきましたか?
先代の時は、社長である先代よりも周囲の方が色々な知識があったので、とにかく言われるがままに受けるという形を取っていました。 しかし、僕はサラリーマンの経験がありましたから、ダメな部分を変えていく事から始めることにしました。
弊社は廃棄物を集めたものを加工して肥料を作り、それを商品にするのですが、入ってくる原料が悪いものだと良い商品を作ることはできません。 ゴミがたくさん入っている原料から、全てのゴミを取り除いた商品に変化させることは不可能です。だから、原料である廃棄物もちゃんと選ばなくてはいけません。弊社は言い方を変えると“ゴミ屋さん”ですが、凄く“ワガママなゴミ屋さん”なのです(笑) ゴミ屋なのに、ゴミを選ぶ凄くワガママな処分場です(笑)
―――最後に出来る商品を良いものにする為の選定という事ですよね?
そうです。ですから、製造業だったら当たり前の事をしているだけなのですが、ゴミを出す側からは「だってゴミでしょ?」と言われてしまって(苦笑) 10年以上前は理解してもらうことが出来ず「そんなのそっちの勝手じゃないか」と怒られることも多かったです。値段などについても、相手が電話で「このくらいの値段でできますか?」と聞いて来られることも多くて(苦笑) 「実際に廃棄物を見ていない段階で、値段なんて決められません」と返すしかありませんでした。そういう意識のズレや、会社の組織としての部分を変えていった事が、僕が社長に就任してからの改革で一番大きな部分ですね。 今ではそんな意識もだいぶ変わって「リサイクルをする為にはこういう風にやってもらわないと引き取れません」と言えば理解してもらえるようになりました。
――― 意識改革ですか。大変そうですね。
大変でしたよ。まだ社員も1人、2人しかいなくて、就業規則も無かったですからね。
雇う側に知識がない状態で中途採用などを行い、社員を雇っていたので「以前勤めていた会社はこうでした」と言われると、言われるがままに受け入れてしまっていたのです(苦笑) 今は外の建屋で行う仕事が多いのですが、当時はある一定の会社から持ってきた荷物を片付けるだけの仕事だったので、その荷物が片付いてしまうと後はやることもなく、雨が降ったら外での作業ができないので、 雨の日は会社に出社しても「どうしよう?」と悩んで、2時間会社にいたら「半日分つけるので、今日は終わりにしよう」というような事がたくさんありました(苦笑) 本当に会社なのか?と疑問が出るような状態でしたね。

売上高も当時は2000万くらいで、本当に小規模な家族経営でした。しかし、入社してから社長に就任するまでの間に売上高が1億円くらいまでに上がって、就業規則も作って、会社自体が変わってきました。僕が引き継いだ頃はそういう感じでしたね。
◆ 経営されていく中で一番意識していること・大切にしていることは何ですか?
他の会社でも“環境目標”や”環境理念“というものがあると思うのですが、弊社は廃棄物を扱うという関係上、そもそも全部が『環境対策』になっています。 その為、環境対策は本業の柱であり、絶対に外せないものなので、大切にしなければなりません。 もう一つ大切にしているのは“安全対策の徹底”です。 恥ずかしい話ですが兄の話とは別に、現場で大きな労災事故が起きたのです。 重機でトラックの荷台へ荷物を積んだ際、荷物が山になってしまうので、荷台へ上がって“均し作業”をすることになっていたのですが、その一連の作業の際に起こった事故でした。 通常、重機のオペレーターは重機から一度降りてからトラックの荷台に続く梯子を使って荷台に上がり、荷台の荷物を均したら、また梯子を使って降りて、重機に戻らないといけないのですが…。 事故になった時、オペレーターは重機のアーム部分に上り、そこを渡ってトラックの荷台へ移っていたそうです。行きの時は大丈夫でしたが、均し作業が終わり、重機の操縦席へ戻ろうとして、再度アーム部分へ飛び乗った時に足を滑らせて地面へ落下してしまいました。 当然、ヘルメットは被っていたのですが、顎の所で固定しておらず、ただ被せていただけだった為、落下した時に飛んで行ってしまい、彼は脳挫傷と全身打撲による意識不明の重体となりました。 結果を先に言うと、事故で怪我をしたオペレーターは8ヵ月程のリハビリ等を経て、弊社に復帰し、今も元気に働いてくれています。それについては心の底から良かったと安堵しましたが、本当に痛ましい事故で、僕には後悔しかありませんでした。

会社に入ったばかりの頃、兄の事故があったにも関わらず、再度このような大きい労災事故が現場で起こってしまった。事故の内容からしたら、こちらの指示ではなく本人のミスによる事故であることは分かっていたが、安全対策を社員に徹底させることが出来なかったことに対して、僕は物凄く後悔しました。 彼が入院していた時、彼のご両親の所へ毎日お伺いして話を聞きました。ご両親も今回の事故が彼自身のミスで起きたということなどを全部理解してくれていましたが、僕自身はずっと後悔をしていました。 ある時、彼のご両親から「社長、一つお願いがあります」と声をかけられた時、僕は情けなくも「何を言われるのだろうか」と怖気づいていました。正直、賠償請求の話などをされると思っていたのです。でも実際にご両親から言われたのは「息子は一生懸命リハビリをしています。 リハビリが終わったら、以前と同じように重機のオペレーターとして働きたいと言っているのです。申し訳ないですが、こんな息子をまた雇用してもらえませんか?」という言葉でした。本当に嬉しくて、僕は彼のご両親の前で泣いてしまいました。こういった事故があったからこそ、絶対に事故を起こしてはいけないと僕自身が再認識することができました。 環境と安全って、どこの会社でも大切にしていると思います。ですが、弊社は、環境は『廃棄物を扱う会社だからこそ、綺麗にしなくてはいけない』安全は『重機などを扱う現場だからこそ、気を抜くと重大事故に繋がってしまう。だから安全対策を徹底し、みんなで注意しよう』という事を大切にしています。基本の部分ではありますが、今でも朝礼の時間などを使って社員全員に伝えるようにしています。
あとは、『他の会社とは違う“付加価値”を付けていかなければならない』ということを意識していますね。弊社はゴミに “信頼”という付加価値を付けるように意識しています。例えば、社員がお客様の所へ行ったら、面談する時に社員個人ではなく“弊社の代表”として見られますよね。社長である僕ではなく、運転担当の社員だったり、営業担当の社員であったり、その人の対応が『会社』として評価されるという事を意識するように、社員には伝えています。 もしかしたら、他の人が伺った時に個人個人の違いに気づいてくれる事もあるかもしれません。でも、一般的には『会社の代表』として見られるわけですから、そういう部分はお互いに注意しようねと言っています。

◆ 企業がここまで成長できた理由はどんなところにあると思いますか?
僕は、ある経営者の方にこう言われたことがあります。 「会社は経営者が“こういう規模にしたい”と思った規模になるのではなく、“社会に必要とされる仕事”をしていれば、会社は“大きくする”のではなくて、“大きくなってしまう”ものなんだよ」と。 その方は最初に「蓑は会社をどういう形にしたい?」と聞いていらっしゃったので、僕は「5年か10年位でみんながしっかり食べていけるような会社にしたいです」と答えたのですが、その時の返答が上記の言葉でした。 その頃、弊社の売上高は1億ちょっとくらいで『頑張って会社を大きくしていこう』と思っていた時でしたので「大きくしたくないのに、会社が勝手に大きくなる事なんて無いだろう」と思っていました。
その方が言っている言葉の意味を深く理解することができなかったんです。 「社会からのニーズがあって、それに応える仕事をしていく。その需要が多ければ、たとえ会社を小さくしたいと思っても、会社は大きくなってしまう」と言われた時に、『じゃあ、会社を大きくしたい場合は社会に何が必要なのかを考え、それに見合う仕事をすればいいのか』と考えました。 それから、その経営者の方は「社会の中に仕事内容などに共感できる人がいて、その人たちが会社に来てくれれば、良い人が集まる。共感してくれる良い人材は簡単に辞めたりしないよ」という事も教えてくださり、大変勉強になりました。 その方の言葉を胸に一生懸命頑張ってきた結果、去年より1つ、また1つと確実に会社を大きくすることが出来ていました。 成長に気付く前は売上が伸びても、大変さが一向に変わらなかったので、毎回税理士の先生と掛け合いのような会話をしていましたね(笑) 僕から税理士の先生に「5000万の売上になったのに、大変さが変わりません!」と言ったら、先生は「1億の売上になったら変わるから」と仰って、1億の売上になった時に「1億になったけど、大変さが全然変わりません」と言ったら今度は「1億じゃまだ分からない。 1憶5千万になったら変わるから」と言われ(笑) 「おかしい。1億5千万になったのにどんどん忙しくなっています!」と言ったら、そこで税理士の先生に「振り返ってごらん?」って言われたんです。「売上が3千万、5千万の時と、今。同じ仕事をしていますか?社員数は同じ?会社の規模はどう?社員の考え方はどう変わりました?」と言われて、ハッとしましたね。 「人は前だけを見て進んでいると気付きにくいけれど、後ろを振り返った時、自分の歩いてきた道が見えるんだよ」そう言われて、登山の事を思い出しました。登山も前を見て進んでいた時には、頂上は遠く、変わりがなく見えたけれど、振り返ってみたら地上から離れ、自分が頑張って登ってきた道が見えた。“会社の成長”というのは、必死に頑張って仕事をしている時は気付きにくいけれど、社会から必要とされる仕事をしていれば、自然と成長するものだったのです。

――― 気付いたら成長するとのことですが、会社を成長させる為に“意識して”行ったことはありますか?
会社を成長させる為には自分一人が頑張っていてもダメです。周りの人たちと一緒に成長していく事が大切だと思います。 例えば、仕事に関わっている外部の会社に圧力をかけてその会社の利益が出ないくらい値引きをしてもらい、仕事が終わっても苦情ばかり言う会社と、相互の利益を考え、相手が要望してきたことに対して出来うる限りの対応を行う会社があったとします。 同じ地域で何かしらのトラブルや災害が起こり、2社が同時に1つの会社へ「今からすぐ来てくれ」と言った時、どちらの会社に行きたいと思うでしょうか?後者ですよね。 ですから、利己的な考えばかりではいけない。利他の精神がとても大切です。『自己の利益だけにとらわれず、取引先と相互利益のある関係』だからこそ、弊社では他社に依頼する際「ちゃんと利益を取ってくださいね」とお伝えしています。 その分、弊社からも相手先に「今から来てください!」などの無茶なお願いをすることもあります。 有り難いことに、関わりを持っている方々は、このような無茶にも応えてくださっているので、こちらも応えていかなければなりません。 そういう信頼関係を築いた上で仕事を行っていて、社会から必要とされる仕事をしていれば、会社は気付いたら大きくなっていると思います。 ちゃんと地に足を着けて、翌年の目標などを立ててやっていく。社員を育てていく。これが大事だと思います。 一人ではできない事も、人に支えてもらえれば出来ます。僕はたくさんの人に支えられてきましたから。
あと、大切なのは『経営者が一番勉強をする』という事です。 僕も、今回のTOPインタビューを紹介してくださった【シーエーティーの伊藤社長】や、以前TOPインタビューを受けていた【シンコーラミの河原崎社長】彼らと共に様々な考え方を勉強しています。 『良い会社になる。良い経営者になる。良い経営環境を作る』まずは、利益の出る会社じゃなければいけません。利益の出せる会社になっても、社長が遊び呆けて会社に来ず、周囲の評判も悪い様ではいけません。 経営者は経営者である為の勉強をしていかなければいけないのです。利益が出て、経営者もしっかり勉強しているのに、地域の人たちから「あそこのトラックはいつも汚くて煩い。 煽られたこともあるので、あそこの会社の車が通ると近所の子供立ちが安心して道を通れない」などと言われてしまったら、その地域に必要な会社ではなくなってしまいます。 だからこそ、良い経営環境が必要です。この3点がしっかりできている会社は成長出来るのだと思います。

◆ 企業に関わる人々や地域社会にどのようなプラスの影響を与えていますか?
弊社がしっかり肥料を作ることによって、北部地域の酪農業(地域業)を支えることに繋がっていると思います。 また、弊社が酪農業から廃棄物の処理に業種を変更した当初は、先代から「市内の酪農家さんたちが困るだろうから、弊社で作った肥料は市内では販売するな」と言われていました。 その言葉の通り、県内や市内には一切販売しなかったです。なぜ市内で肥料を販売しないようにしていたかというと、酪農業を営んでいる人にはわかると思いますが、自分の所で出た牛糞から牛糞堆肥を作っている方が多くいらっしゃるという背景があったからです。 弊社が酪農業だった時はもちろん他の酪農家さんと同じように肥料を販売していましたが、業種変更後に肥料を販売してしまったら、他の酪農家さんに迷惑がかかると思ったのです。
そういう気配りはしていましたね。 その為、当時は全国に肥料を卸していました。北は山形や仙台から、南は九州まで。弊社の代理店経由で肥料を持って行っていました。
 
――― 現在は市内でも肥料を販売しているそうですが、いつから方向性を変えられたのでしょうか?
4年前に牛糞堆肥を受け入れる工場を作ることにシフトしました。 弊社が受け入れている廃棄物は、先にも言った『食品会社の残渣』や『富士・富士宮市の下水』などですが、その中で最も比率が高いのが『牛糞堆肥』で、現在では弊社で受け入れる廃棄物の半分以上が牛糞堆肥となっています。 皆さんはあまりご存じないかもしれませんが、県内にいる酪農業の9割は富士宮にいるんです。この朝霧高原というのは大酪農地域とされていて、実はここが本州最大の酪農地域なのです。 僕も酪農業の方と関わるようになるまでは知りませんでした(笑) 最初は酪農家さん達との関わりが希薄でしたが、静岡県内で出る大量の牛糞のおよそ28%くらいを弊社で処理するようになって、地域と密接に関わるようになりました。 また、行政でも『ゴミを処理しなければならない』という事は理解されていたのですが、中々実行に移すことが出来ないでいたので、弊社が動くことになりました。
近くの酪農家さん達から牛糞を預かり、袋詰めにする作業を行ったのです。 なぜ、そのような流れが出来たかというと、今までは畑をやっている農家さんがトラックなどで酪農家さんの所に牛糞堆肥を取りに行って使っていたのが、時代の移り変わりとともに、農家さんから「持ってきてくれたら使いますよ」と言われるようになったそうです。 そこで酪農家さんが牛糞堆肥を持って行ったところ、周囲から臭いの苦情が出てしまい、袋詰めにしてほしいという要望が生まれたのです。 ですが、酪農家さんは肥料を作ることはできても袋詰め加工をするような手段も時間も持ち合わせていません。そこで、弊社が袋詰めの作業を行う事になったのです。今ではジャンボエンチョーなどで弊社の名前の入った商品が販売されるようになりました。 これは富士宮市や静岡県と共同で行っている事業で、地域に広げていこうと思っています。

先程も言った「一人ではできなくても、周囲の人の力を借りることによって出来る仕事」ということです。 そうやって周囲を巻き込んでお仕事することで、この地域に対する弊社の存在意義となりましたし、地域から必要とされているという事が社員のモチベーションにも繋がっています。僕は以前からずっと、社員に思っていることがありました。それは『廃棄物を処理する会社で働いていることが、負い目になってもらいたくない』という事です。 「廃棄物の会社って、要はゴミ屋さんで凄く汚いんでしょ?」などと周囲に思われるのではなく「リサイクルをやっている良い会社で働いているね」って言われるように弊社を変えていかなければならないとずっと思っていたのです。 地域の方の意識を変える為には、まず自分たちから変わっていく事が大事だと思っています。だからこそ、今回行っているこの工事(桜を200本植えたり、電柱を地中化したり、建屋を建設して工場内を綺麗に整備したりする工事)もやることに決めました。 凄くお金がかかるけれど、富士山が見えるようになっても弊社の仕事内容には全く関係ありません(笑) 桜を200本植えたとしても、仕事内容に何か変化があるわけではありません。でも、弊社が地域に受け入れてもらい、地域に必要な会社になる為には必要な事だと思ったのです。

――― 地域の方々を大切にしているのですね。
僕たち中小企業は“植物”だと思っています。大手企業の様に「利益が出ないからこの工場を閉めて海外へ工場を建てよう」ということはできません。 この地で根を張って生きていくのです。根を張る為には、風雪が降りかかってきても大丈夫なくらい“強い根”を張らなければいけない。強い根を張る為には、地域の人たちから認知されなくてはいけない。 認知されなければ、生き残っていけませんよね。そうなる為には“クレーム”や“苦情”が無いように、言われたことに対してしっかりと対策する。先にも言いましたが、自分たちから変わっていかなければ、地域も変わりません。 新しいことに挑戦していかないと、地域の人たちに「良い会社だね」と言ってもらえないと思っています。
――― 桜200本を植えるというのは凄いですね。
パンフレットに描かれている様なたくさんの桜が咲くのは何時になるのかってよく聞かれるのですが、実は僕も分かっていません(笑) パンフレットの様になって欲しくて桜の苗木を植えたのに、所々、鹿に齧られてしまったのも、本当にショックで立ち直れなくなっています(苦笑) なので、鹿に齧られないような大きな苗木を植えてみようかなと考えています。これは蛇足なお話ですが(笑)